yoga tongue補講。by MUЯ
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って訳じゃないが、先週ひさびさにゆっくり話できた。
yoga tongueはなんとなくyoga(ヨガ)と話してるよーなもんらしい。 yogaをやってる2人とのつき合いはかなり長いが、やつらの頭の中にあるyogaとのつきあいはまだ1年程度だから、yogaは俺にとってはあいかわらず得体が知れないw。 独特の価値体系や思考体系をもった、褐色のじーさん(もしくはおっさん)の話を聞いてるよーなもんだろう。
自らの感覚や体験に置きかえてみると納得がいく話もあるし、どーも釈然としない言い分に聞こえるときもある。
まぁしかし人間同士のやりとりもそんなことの連続だし、そう考えるとyogaじーさんの意見や主張は、一聴に値するものも多いかも。
この日聴いた話で印象を残したのは、“yogaはyogaをやること自体が目的”という表現。 美容、健康、精神性などなど、さまざまなメリットがうたわれがちなyogaだけど、それらはすべて副次的なおまけであって本質じゃない。本質じゃないってことは目的にはならないってことで、結局yogaをすること自体のみがyogaだとか。 なんとなく禅問答っぽくなってきたので、具体的なとこに話を戻すと、yogaという行為を生活習慣にすることで、からだの声を聴いたり、からだにいい作用を及ぼせる領域の拡大や能力の向上ってのはあるらしい。そしてそれと同時に、作用を及ぼせない領域があることを受容したりもする。肉体的、精神的、社会的なとこなど、様々な領域で自分の思惑通りにいかないことは多々ある。それを容認した上で、向き合う姿勢をとれることも、恩恵のひとつだったりするよーだ。 つまりは枝葉に目をとられずに、根幹のyogaを目的にしてれば、変にぶれることなくyogaの本質を遂げられると。
ここで気づくのは、ここでのyogaが人によって色んなものに置き換えられるっていうこと。
俺ならば例えば、バスケとかアートとか読書とか。 とくに読書については最近よく思う。
“読書は読書自体が目的だ”と。 補足するなら、読書という体験自体が目的だといってもいい。 本が読まれる大きな理由の一つに、知識や情報収集がある。 それはそれで否定しないし、俺ももちろんそーするときはある。 けれど、そこに偏重する傾向を社会のどこかに感じたとき、小さな違和感とあさましさのようなものを感じたりもする。とくに実用書やハウツーものだけの書棚はじつに滑稽だ。
「本を読んだら必ず知識を得なければいけないのか」って疑問。 そこを目的としなくなったとき、もっとすばらしい体験がすぐそこにある。 ま、俺なんかが云わなくても本好きには当然のことか。。。
バスケもアートも、それをやることが全てになる。 これも、仲間ならきっとわかってるはず。 そりゃー健康に良かったり、精神性を高めたりもしてくれるときはある。 けど逆に、しっかり痛めつけてくれたりもする。 どちらにせよ、それが目的じゃないからどっちでもいい。
とにかく、やること自体が目的だって発想は潔くて好きだ。 俺は人を巧い下手で測るより、行動と姿勢への興味が強い。 下手でもがつがつやってるなら絶対なにか面白いものに化けると期待する。 反対に、自らの装飾用に大切な言葉を浪費する行為はげんなり。 つまりposersとかwannabeesと呼ばれる人たちのことだけど、そのおかげでたとえばもともとは尊かったクリエィティブって言葉とかが、いまはたっぷりアカにまみれてる。 自分をクリエイターっていうならずっと手を動かしてモノをつくって、ボーラーというならバスケは実際に楽しみつづけるのが必然なのに、そーでもないのに粉飾と自己陶酔のために、その言葉を名札に入れる。
“Style is evrythng”とは俺の大切な信条のひとつ。墓の中でも自らに問う。 思索の糸が、翌々日にはそんなとこまで絡みつき拡がっていく会話をした。
もう一度いうと、この日のはyoga tongueではなく日常会話だったけど、こんな刺激が脳をくすぐりにくる日がまた近くに迫ってもいる。 今月のyoga tongueは来週木曜(10日)なり♪ BALL TONGUEオリジナルグッズ、オンラインストアでも好評発売中♪ さてっ、この木場のバスケカフェブログ、はて何位??
By MUЯ
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