2010年の回想。 by MUЯ
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昨夜の流れを受けて、ちょっとここでも今年を回想。
今年手にとった本の中でやたら印象的なくだりがあるから、あれこれ言わずまずは引用から。 BALL TONGUEオリジナルグッズ、オンラインストアでも好評発売中♪

「われわれは夢見ることを決してやめてはならない。夢はたましいに栄養を与える。それはちょうど、食事が体に栄養を与えるのと同じだ。われわれは人生で何度となく、自分の愛が打ちくだかれ、失望する時を体験する。しかし、それでもわれわれは夢を見続けなければならない。そうでないと、われわれのたましいは死に、アガペ(*キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す)はたましいに達することができなくなる。われわれの前に広がるこの大平原で、これまで多くの血が流されてきた。ムーア人を追い出すための最も熾烈な戦いのいくつかもここで行われた。誰が正しく、誰が真実を知っていたかは問題ではない。大切なのは、そのどちら側も良き戦いを戦ったということを知ることなのだ。 良き戦いとは、われわれの心が、そう命じるがためにわれわれが戦う戦いのことだ。英雄たちの時代、つまり、よろいを着た騎士の時代には、これは簡単なことだった。征服をし、多くのことを行うための土地があった。しかし、今日では、世界はすっかり変わってしまった。そして良き戦いは戦場から、われわれ自身の内へと移行したのだ。 良き戦いとは、夢のために戦われる戦いのことだ。われわれが若く、夢が初めて内側からはじけ出す時には、われわれはこの上なく勇気に満ちている。しかし、まだどう戦えばよいのか、その方法を学んでいない。努力に努力を重ねて、われわれは戦いの方法を学ぶが、その頃には、すでに戦いにおもむく勇気を失ってしまう。そこでわれわれは自らに背き、自分の心の中で戦い始める。つまり、われわれは自分自身の最悪の敵になるのだ。そして、自分の夢は子どもじみていて、難しすぎて実現できない、人生を十分に知らないせいだと言い聞かせる。良き戦いを戦うのを恐れて、自分の夢を殺してしまうのだ」
「自分の夢を殺すと、まず最初に時間が足りないという症状が現れる」
「最も忙しい人たちは、人生には常に、あらゆることをするのに十分な時間があることを知っている。何もしない人たちはいつも疲れていて、やらなければならないほんのわずかな仕事にも注意を向けようともしない。彼らは絶え間なく、一日は短すぎると文句を言っている。本当は彼らは良き戦いを戦うのを怖がっているのだ。 夢の死による二番目の症状は、われわれの確信の中に現れる。人生を偉大な冒険として見たくないがために、人生にほとんど何も望まない方が、賢くて公正で正しいと思い始める。そして、日々の暮しの壁の向こう側をのぞき見し、槍が折れる音を聞き、ほこりと汗のにおいをかぎ、戦士たちの目の中に、大いなる敗北の炎を見る。しかし、われわれは、戦いに行った者の心に宿る喜び、無限の喜びを見ようとはしない。戦う者にとって、勝利も敗北も大切ではない。大切なのは、彼らが良き戦いを戦っている、ということだけなのだ」
「そして、夢の喪失の第三の、そして最後の症状は安逸である。人生は日曜日の午後になる。われわれは何一つ偉大なことを望まず、われわれが与えたいと思う以上のものを何も要求しなくなる。このようになると、われわれは自分が成熟したのだと思い込む。そして若い頃の思いを忘れ去り、個人的で職業的な実績を追い求める。同じ年頃の人たちが、人生からまだあれを欲しいこれを欲しいと言っているのを聞くとびっくりする。しかし、実は。心の奥底で、自分は自分の夢のために戦うことをあきらめたのだ、つまり、良き戦いを戦うのを拒否したのだ、とわれわれは知っている」
「夢をあきらめて安逸を見出すと」
「われわれは、ほんのしばらくは安らかな時期を過ごす。しかし、死んだ夢はわれわれの中で腐り始め、われわれの全存在を侵し始める。われわれはまわりの人々に冷たくなり、さらにはその冷たさを自分自身に向け始める。こうした時、病気やノイローゼになるのだ。戦いの中で避けようとしたもの、つまり、失望と敗北が、われわれの臆病さのゆえに、われわれに襲いかかってくる。そしてある日、死んで腐敗した夢は、われわれを呼吸困難におちいらせ、実際、われわれは死を求め始める。それはわれわれを、自らの確信、仕事、そしてあのおぞましい日曜日の午後の平和から自由にするものなのだ」
巡礼をテーマにした小説からの引用なので、キリスト教の用語とかもいろいろ出てくるけど、この本は聖書じゃないし、俺もクリスチャンって訳じゃない。もちろん作者には神学の素地あり。
俺は通常、他者の言葉の流用にとても慎重だし、拙くとも全て自分の言葉で伝えることを大切にしている。 けれどこの小説のこのくだりに関しては、自分で書いても93%くらいに符合する意見と価値観を示しそうだし、かつ彼の表現の方が知識的にも技巧的にも独特の深みと拡がりがあるのが明らかで、特例的にそっくり抜き出させてもらうことにした。
言葉は、誰が云うかってことや、誰が聴くかってことで、実はまるで響き方や伝わり方や受けとり方が違う。単なる記号にとどまらないそのゆらぎやあやうさが言葉の魅力であるのは確かで、だから慎重にもなるし、適当にもなれる。どんな状況で、どんな文脈から発せられたかももちろん重要。その言葉を発する人間が、その言葉を裏付けられる質量や熱量をもってるかもすごく大事。
2010年の日本はtwitterに彩られてたけど、RTって手法がときに粉飾と陶酔だけの薄っぺらな発言を流布させたり、あらぬ誤解や勘違いを発生させていたりもして、なんか滑稽だったり気の毒だったりした側面もある。twitter自体には何の非もないし、恩恵も受けたし楽しく役立ててもいるけどね。けれどそんなのを見ていたからこそ、人がリアルかハリボテかとか、他者の発言をわがもののように引用する行為の違和感にこんなにも意識がいってしまった一年だったかなとも思う。
今回冒頭に引用したこの文章も、人によって大きく捉え方は異なるだろうし、印象に残る箇所も違うだろう。 こうしてブログに載せることで、それなりの数の人の目には触れるだろうし、それが好影響でない場合ももしやあるかもしれない。ならばなぜ載せたか。 俺が今年何度も感じた想いと強く重なることがまず一つ。 俺が同志と感じる仲間や、まだ見えぬ世間のそんな誰かに力をもたらす気がしたのがもう一つ。
昨年の暮れから云ってたように、今年からは個人的にグループワークにこだわってる。元々が人との出会いに恵まれたカフェという職種に加え、俺自身のそんな意識から、色んな人の色んな生き方に興味をひかれた。その中で共に何かを起こそうと企てた仲間はいろいろ居るし、おもしろい出会いや縁の深まりもいろいろあった。 本当の戦士であり続けるヤツにはつくづく敬意と感謝を感じる。
この本との出会いは、たぶん今年のはじめ頃。 その中で上のくだりを読んだその瞬間からかなりのインパクトはあったけれど、それを自分の中で咀嚼しきるまでは、こうして表に出すことにそれなりのためらいもあった。 今はやはりぶれない自身の感覚として、今年を象徴する意味でここに書き記しとく気になった。
「夢や野心をむき出しに、自分に偽りなくためらいなく戦う」
簡潔な俺なりの意見であり、冒頭の文章からも読み解く軸はそんなとこ。 来年もやったら!
 artwork/el fatom photo/MUЯ
* 書を読むって体験は、極めて個人的だから大切に閉ざしておきたい部分もある。 よってここで作品名や著者は明かさないけれど、もし冒頭の作品を読んでみたければご連絡を! 個人的にお教えします。
戦士の一着。BALL TONGUEフーディ・ミッドナイトBLK★ さてっ、この木場のバスケカフェブログ、はて何位??
By MUЯ
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